『平凡』の平凡な思い出(203)
            ー今回もまたざっくばらんにⅧ

 

1960年という年は・・・まず”60年安保”を思い起こす人が多いと思いますが、私はまだ生まれててはいなかっ・・・いや生まれてはいたけれど、まだ小学生になる前で何のことやらさっぱりわかりませんでした。しかし、となりのカオルちゃんと表通りに出て肩を組み「アンポハンタイ、アンポハンンタイ」とジグザグデモの真似をしたことを今でも覚えています。(カオルちゃん今でも元気かな?)
始めに断っておきますけど、私、政治社会に関心は持っていますけれど、それが専門ではないので小難しいことはわかりません。

 

同じ年、社会党の浅沼委員長が日比谷公会堂で演説中に”右翼少年”に刺殺されたのもこの年の10月でした。(同じ頃のことだとは思っていましたが、同じ年の事件と知ったのは最近のことです)
そして、「『風流夢譚』事件」が起きたのもこの年から翌年にかけてのことだったそうです。私、この事件があったことを知ったのはつい最近のことです。
作家の深沢七郎天皇に関することを書いたことが右翼の攻撃に合い、しばらく逃げ隠れしていたそうです。
そして、別の右翼の少年が出版元の中央公論社の社長宅に行き(社長は留守)、家にいた社長夫人と家政婦にナイフで攻撃して夫人は重傷を負い、家政婦さんは死亡したそうです。
この二人のテロリストは共に日本愛国党員で過激なため事件時は除名されていたとのこと。そして、何と共に犯行時17才だったそうです。
また大江健三郎は『セブンティーン』という小説を書き、やはり右翼の攻撃を浴びていたそうです。

 

二つの事件の後、TBSラジオがその党の同年代の少年たちを取材したものが残っていて、先月『セッション22』で放送していました。
その10代後半の右翼少年たちの印象は声質は大人、話し方は子供、論理度は低いといった感じでした(勿論私が感じたことです)。
二人のテロを行った少年に対して同情のようなものを感じ「正当防衛だ」と話していた。「社会党は肉体的(暴力)ではないけれど、日本民族というものに向かってきていた」。だから「理由があった」と主張していた。
尊敬する人は一様に「先生(赤尾敏)です」。
日本の社会主義共産主義化をひどく恐れて、そのために米国と結ぶことを良しとした(右翼思想とは一見合わないんですけど?)。
岸(前首相)を絶賛し池田(首相)を腰抜けだと非難していた。
ヒトラーには「今叩かれているけれど、いい点もいっぱいあった」とも・・・。

 

その60年代後半には世界的に学園紛争が起こり、エスカレートすると左翼の暴力が頻発する。よど号をハイジャックしたり連合赤軍浅間山荘事件が世間を身震いさせた。総括と称するリンチ事件が起きていた。
これらを描いた映画も何本かあると思いますが、『光の雨』がお薦めです。

(原作・立松和平、監督・高橋伴明、出演・大杉漣

 

そして、同じ時代自分たちでつくった歌を自分たちで唄うフォークソングも大流行でした。大体歌だの美術だの芝居だのと現(うつつ)を抜かしている連中は暴力を好まない(中には例外もいるでしょうけれど)。
しかし、プロテストソングに代表されるように社会に対して闘っていた、声を上げていたことは事実です。直接、社会に対するものでなくても何かしら闘っていた。そんな印象を持っています。

そして、飛ぶようですが、今のJポップとか呼ばれている代物をFMラジオ等で聞いていると「やさしい」。そう感じます。しかし言葉を変えると「甘い」、何か「見ぬこと清し」になっていませんんか、ね・・?

 

                           ―ボンちゃん

 

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